さようなら
永遠のアイドルホース オグリキャップ

どのような名馬にも、無情のときが来る。
永遠のアイドルホース、オグリキャップが逝った。
2010年7月3日午後、オグリキャップは北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで放牧中に転倒し、右後肢を骨折。三石診療センターへ緊急搬送されたが、手の施しようがない状態で、やむなく安楽死の措置が取られた。25年の輝く命だった。


1985年3月27日生 牡 芦毛
父ダンシングキャップ 母ホワイトナルビー(シルバーシャーク)
馬主:小栗孝一→佐橋五十雄→近藤俊典
調教師:鷲見昌勇(笠松)→瀬戸口勉(栗東)
生産者:稲葉不奈男 (北海道三石)
競走成績:32戦22勝(地方12戦10勝含む)
総獲得賞金:912,512,000円(地方含む)
永遠のアイドルホース オグリキャップ
古いことわざに「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という。栴檀(白檀)は発芽したばかりの二葉の頃から香気を放つ。そこから、大成する者は幼少のうちから優れているというたとえ。
歴史的名馬の例にもれず、オグリキャップがまさにそうであった。旧3歳(現2歳)の5月にデビューする早熟さを見せ、地方競馬で12戦10勝、2着2回。その旧3歳のシーズンを破竹の8連勝で終えると、満を持して中央入り。以後の活躍は空前の競馬ブームを招来し、その名は日本の競馬史上に燦然と光り輝くものとなる。
オグリキャップは1985年3月27日、北海道三石郡三石町の稲葉牧場で生まれた。父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビーの芦毛の牡馬として。
馬主はホワイトナルビーの所有者でもあった小栗孝一。オグリキャップは、いわゆる仔分けの馬であり、小栗は稲葉牧場に評価額の一定割合(250万円とも500万円ともされる)を支払ってオグリキャップを自分の所有馬とした。
生まれたばかりのオグリキャップは右前蹄が外向していて、なかなか自力で立ち上がれなかった。外向は競走馬にとって大きなハンデとなるが、稲葉牧場長の稲葉不奈男が削蹄で矯正に努め、成長するにつれて目立たなくなった。
幼名(血統名)を“ハツラツ”と名付けられたオグリキャップは順調に成長し、86年10月になると岐阜県の美山育成牧場へ移され、3か月の馴致期間を過ごす。笠松競馬場(岐阜県)の鷲見昌勇厩舎に迎えられたのは、87年1月のことだった。鷲見(すみ)はホワイトナルビーの調教師でもあり、オグリキャップを管理するのは自然の流れであった。
地方時代のオグリキャップは、ほとんど無敵の存在だった。デビュー戦と4戦目(いずれも笠松ダート800m)を、ともにマーチトウショウのクビ差2着に敗れたのは、出遅れがこたえたもの。オグリキャップは5戦目以降、マーチトウショウを4度に渡って2着に下すなど、連戦連勝。地方時代、唯一の芝レースとなった中京盃(中京競馬場、1200m)では、中団追走から鮮やかに抜け出した。他に名古屋競馬場で1勝。あとはすべて笠松のレースだった。
これだけ強いオグリキャップを“笠松の英雄”で終わらせるのはもったいない。特に芝の適性があることが分かってから、中央の馬主から小栗のもとへ、購買申込みが殺到した。笠松競馬に思い入れの強い小栗は中央競馬での馬主資格を持っていなかったのである。
1988年1月、オグリキャップは佐橋五十雄に売却された。価格は2000万円。“中央の芝が向かなかったら鷲見厩舎へ戻す”という条件つきだった。
中央競馬での所属先は瀬戸口勉(栗東)の厩舎に決まり、中央初戦に選ばれたのは88年3月6日のペガサスS(G3、現在のアーリントンC)であった。河内洋を鞍上に、首をブルルと振ってゲート入りするオグリキャップ。後にトレードマークとなる“オグリの武者震い”は、このときすでに見られていた。そしてレースでは中団の最内から3角を過ぎて外へ出し、“持ったまま”の大楽勝。着差は3馬身でも、クラスの違いを印象づけるケタ違いの強さで、スーパーホース誕生を予感させるレースだった。
鳴り物入りでの中央入りとはいえ、このときのオグリ人気はまだ全国区といえず、単勝2番人気での初陣であった。続く2戦目の毎日杯(G3)は後ろから行き過ぎた感もあってクビ差の辛勝だったが、よく1番人気に応えた。このあと通常なら皐月賞なのに、オグリキャップにはクラシック3冠の登録がない。代わりに京都4歳特別(G3)へ向かうと、南井克巳の騎乗で5馬身差の圧勝。当時は追加登録制度がないため、当然ダービーにも出られない。次いでニュージーランドトロフィー4歳S(G2)に出走し、河内騎乗で7馬身差の大楽勝を飾る(追加登録制度は1992年から)。
このあとの高松宮杯(当時G2、中京芝2000m)では古馬のランドヒリュウを負かし、1分59秒0のコースレコードで快勝。秋初戦の毎日王冠(G2)も河内が騎乗し、古馬の一線級を相手に大外を回って差し切り、3つ上のダービー馬シリウスシンボリを2着に沈めた。これで中央入りして無敗のまま、JRA重賞連勝タイ記録の6連勝を達成したことになる。
続く天皇賞(秋)では8連勝中(G1を2連勝)のタマモクロスを凌いで1番人気に推されたが、先行して抜け出すタマモクロスをかわせず、2着まで。結果的に後ろから行きすぎた印象があり、次いで臨んだジャパンCでは、佐橋五十雄の要請で先行策に出た。しかし向こう正面で後方へ下がり、4角大外の距離ロスもこたえ、ペイザバトラー、タマモクロスに次ぐ3着に敗れる。
オグリキャップ最初の復活劇が成ったのが続く有馬記念であった。岡部幸雄に乗り替わり、6~7番手追走から4角で進出、スムーズな競馬で直線先頭に立つと、タマモクロスの追撃を1/2馬身抑えて快勝する。1988年のベスト旧4歳牡馬の座を確定させたレースでもあった。
明けて1989年(平成元年)、旧5歳となったオグリキャップは近藤俊典の所有馬として出走することになる。
そんな事情を知ってか知らずか、89年のオグリキャップは春競馬を全休することになる。譲渡契約がまとまった2月に右前球節を痛め、4月には右前繋靭帯炎を発症、天皇賞(春)の出走は叶わなかった。
それでも、JRA競走馬総合研究所常盤支所(福島県いわき市)での温泉療養や超音波治療、プール運動が功を奏し、9月のオールカマー(G3)でレース復帰する。南井騎乗であっさり断然人気に応え、コースレコードで快勝すると、毎日王冠(G2)では、この年の天皇賞(春)と宝塚記念を連覇したイナリワンとの叩き合いをハナ差で制した。これを1989年のベストレースとする意見もある。
迎えて第100回の天皇賞(秋)。ここでもオグリキャップは大本命に推され、好位につけて最後の直線に向く。しかし勝負どころで前が開かず、外へ持ち出す大きな不利がこたえた。レースは武豊の好騎乗でスーパークリークが優勝、南井騎乗のオグリキャップはクビ差の2着に甘んじた。
そして実にこれからがスーパーアイドル、オグリキャップの真骨頂だ。過酷な日程もなんのその、入魂のレースを続けてファンの心のひだに熱い想いを注ぎ込む。
天皇賞(秋)のあと、まず京都のマイルチャンピオンシップ(G1)へ。武豊のバンブーメモリーが直線に向いて先頭に出ると、すかさず南井のオグリキャップが最内へ切れ込んで追撃態勢。差はなかなか縮まらず、そのまま決着するかに見えたが、決勝線寸前でオグリキャップの闘志に火がつき、ハナ差かわして劇的な勝利を収めた。先の毎日王冠ではなく、これを1989年のベストレース、いやオグリキャップ生涯のベストレースとする向きも多い。
このあと前からの予定通り、連闘でジャパンCへ。常識をくつがえす使い方に賛否両論あったが、調子のいい時だからあえて使う、というのが陣営の考え方であった。
オグリキャップはその期待に応えて激走する。超ハイペースの4番手からよく伸びた。しかし、外を回った分、届かなかった。3番手から最内を通って直線に出たニュージーランドのホーリックスを追い詰めて追い詰めて、それでもクビ差及ばずの2着であった。芝2400mの勝ちタイム2分22秒2は断然の東京コースレコード、いや世界レコードであった。毎日王冠やマイルチャンピオンシップではなく、レースの格を考え、このジャパンCをオグリキャップのベストレースとするファンも多い。
このあとの有馬記念は、長期休養後のわずか3か月と1週間で実に6戦目となり、さすがに疲労残りがあったのだろう。果敢に2番手につけたが、直線先頭に立ったあと差し込まれ、イナリワンの5着に敗れた。
その後、福島県のJRA温泉療養施設で英気を養い、ようやく出走体勢が整ったのは、有馬記念から5か月後の安田記念であった。この旧6歳初戦で武豊の騎乗が実現、レースでは3番手から楽に抜け出して、コースレコードで快勝。稀代の人気馬の新たな復活に東京競馬場が沸いた。
続く宝塚記念は、武豊がスーパークリーク(直前に脚部を負傷して回避)に騎乗予定だったため、岡潤一郎のテン乗りで臨んだ。ここも楽勝かと思えたが、前走快勝の反動があったのか動きが重く、オサイチジョージの2着に敗れる。しかもレース後に両前骨膜炎を発症、右後肢の飛節軟腫も判明して満身創痍となり、予定されていたアーリントンミリオン(米)への遠征は取りやめとなった。
それでも再三の温泉療養でよく回復し、どうにか天皇賞(秋)に間に合ったが、増沢末夫の初騎乗でヤエノムテキの6着がやっと。続くジャパンCも大外から伸びず、ベタールースンアップの11着に大敗した。
そして引退レースとなったのが1990年の有馬記念。ここは武豊二度目の騎乗となり、4番人気にまで評価を下げていたが、6番手の外につける展開から鮮やかすぎる差し切り勝ち。この年の年度代表馬の座を確定させ、スーパーアイドルのラストランに花を添えた。竣工したばかりの黒川紀章設計の中山競馬場スタンドには、中山の入場人員レコード、17万7779人が詰めかけていた。この記録は今も破られていない。
栴檀の輝きから称賛と落胆と復活を繰り返し、最終最後に感動の凱旋勝利。これほど劇的なアイドルホースは、もう二度と現れないかもしれない。
(文中敬称略)(石川ワタル)


| 年月日 |
レース名 |
|
開催場 |
距離 |
騎手 |
人気 |
着順 |
| 1987.05.19 |
新 馬 |
|
笠松 |
ダ800 |
青木達彦 |
2 |
2 |
| 06.02 |
一般 |
|
笠松 |
ダ800 |
高橋一成 |
1 |
1 |
| 06.15 |
一般 |
|
笠松 |
ダ800 |
青木達彦 |
1 |
1 |
| 07.26 |
一般 |
|
笠松 |
ダ800 |
高橋一成 |
1 |
2 |
| 08.12 |
一般 |
|
笠松 |
ダ800 |
高橋一成 |
1 |
1 |
| 08.30 |
秋風ジュニア |
|
笠松 |
ダ1400 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 10.04 |
ジュニアクラウン |
|
笠松 |
ダ1400 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 10.14 |
中京盃 |
|
中京 |
芝1200 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 11.04 |
中日スポーツ杯 |
|
名古屋 |
ダ1400 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 12.07 |
師走特別 |
|
笠松 |
ダ1600 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 12.29 |
ジュニアグランプリ |
|
笠松 |
ダ1600 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 1988.01.10 |
ゴールドジュニア |
|
笠松 |
ダ1600 |
安藤勝己 |
1 |
1 |
| 03.06 |
ペガサスS |
GIII |
阪神 |
芝1600 |
河内洋 |
2 |
1 |
| 03.27 |
毎日杯 |
GIII |
阪神 |
芝2000 |
河内洋 |
1 |
1 |
| 05.08 |
京都4歳特別 |
GIII |
京都 |
芝2000 |
南井克巳 |
1 |
1 |
| 06.05 |
ニュージーランドT4歳S |
GII |
東京 |
芝1600 |
河内洋 |
1 |
1 |
| 07.10 |
高松宮杯 |
GII |
中京 |
芝2000 |
河内洋 |
1 |
1 |
| 10.09 |
毎日王冠 |
GII |
東京 |
芝1800 |
河内洋 |
1 |
1 |
| 10.30 |
天皇賞(秋) |
GI |
東京 |
芝2000 |
河内洋 |
1 |
2 |
| 11.27 |
ジャパンC |
GI |
東京 |
芝2400 |
河内洋 |
3 |
3 |
| 12.25 |
有馬記念 |
GI |
中山 |
芝2500 |
岡部幸雄 |
2 |
1 |
| 1989.09.17 |
オールカマー |
GIII |
中山 |
芝2200 |
南井克巳 |
1 |
1 |
| 10.08 |
毎日王冠 |
GII |
東京 |
芝1800 |
南井克巳 |
1 |
1 |
| 10.29 |
天皇賞(秋) |
GI |
東京 |
芝2000 |
南井克巳 |
1 |
2 |
| 11.19 |
マイルCS |
GI |
京都 |
芝1600 |
南井克巳 |
1 |
1 |
| 11.26 |
ジャパンC |
GI |
東京 |
芝2400 |
南井克巳 |
2 |
2 |
| 12.24 |
有馬記念 |
GI |
中山 |
芝2500 |
南井克巳 |
1 |
5 |
| 1990.05.13 |
安田記念 |
GI |
東京 |
芝1600 |
武豊 |
1 |
1 |
| 06.10 |
宝塚記念 |
GI |
阪神 |
芝2200 |
岡潤一郎 |
1 |
2 |
| 10.28 |
天皇賞(秋) |
GI |
東京 |
芝2000 |
増沢末夫 |
1 |
6 |
| 11.25 |
ジャパンC |
GI |
東京 |
芝2400 |
増沢末夫 |
4 |
11 |
| 12.23 |
有馬記念 |
GI |
中山 |
芝2500 |
武豊 |
4 |
1 |
|
|